第18回 外山滋比古『思考の整理学』Part 1

外山滋比古『思考の整理学』Part 1

皆様、こんにちは。本日は、外山滋比古『思考の整理学』(ちくま文庫)をご紹介したいと思います。

外山滋比古『思考の整理学』

感想

まず、タイトルをPart 1としたことからも分かる通り、今回は今日と明日計2回にわたってこの本の感想を書きたいと思います。理由としては、考えさせられることや皆様に知ってほしい部分が多く、さらに私の考えを伝えたいところも多かったからです。

本書の初版は1986年に出版されたそうですが、30年経った今でもその内容は色あせていません。現代にも通ずる”考える”ということの重要性が語られています。

”考える”に関しては、第15回 羽生善治『決断力』第16回 羽生善治『大局観 自分と闘って負けない心』でも何度か取り上げました。これら2つの記事では、将棋の定跡に関する話を交えて、「知識」と「知恵」の関係性を以下のうように述べました。

定跡というのは単なる「知識」であって、それを”自分の頭で考える”ことによって、「知恵」に昇華させなければならない。

ここでいう「知識」というの単なる情報ですが、「知恵」はその知識の使い方を指します。「知識」を「知恵」に昇華させる行動が”自分で考える”ということになるわけですが、今回はその”自分で考える”という部分に特に焦点を当てます。

「学校はグライダー人間の訓練所である。飛行人間はつくらない。」

これは、本書の冒頭に出てくる非常に印象的な表現です。ここでいう、グライダー人間と飛行機人間というのはもちろん比喩表現なのですが、その決定的な違いは「自力で飛べる」かどうかということです。グライダーと飛行機というのは遠くから見ればどちらも優雅に空を飛んでいるように見え大差ないですが、前者は自力で飛べず、後者はそれができます。

そして、ここで「飛ぶ」が表現している内容は、「考える」です。つまり、学校では「自力で考える」人間は育成しないということです。

一見すると的外れのことを言っていると感じる人もいるでしょう。しかし、私も「学校」という教育機関を筆者の外山氏が語るような場所だと感じています。

外山氏が上のように主張する根拠として、現代の学校教育を次のように表現しています。

「いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。」

こう言われると、納得される方も少しいらっしゃるでしょうか?

この状況こそが「考える人間」が育たない原因だと感じます。教える側がなんでも教えてしまうと教わる側に「なぜ?」という問いかけの習慣がつきません。そうなれば、自然と”自分の頭で考える”ことはしなくなります。先生が話す内容は単なる「知識」としてしか認識できず、それらが「知恵」に昇華することは決してありません。となれば、どうでしょうか?学校を卒業してしまえばおそらくはほとんど使わないであろう単なる「知識」を誰が好き好んで覚えるでしょうか?これが、多くの生徒が陥りがちな状況だと感じます。

私は、アルバイトで塾講師として働いているのですが、そこで中高生たちが難解な知識や問題を見て「こんなの絶対に将来使わないじゃん!」と嘆いているのをよく聞きます。

私なりの考えとしては、たしかにそれらの「知識」だけならおそらくを使うことはないだろう、というものです。学校教員や塾講師になれば別ですが、数学の難解な微分法や積分法を卒業後に使う人はほとんどいないはずです。

しかし、かといって、それらの学習が無意味だとはまったく思いません。ここまで書けばお分かりかと思いますが、ある「知識」を得て、それを”自分の頭で考える”ことによって「知恵」に昇華させるプロセスが重要だと考えます。これは、人が生きる限り続けるものですから、その練習を10代のときに十分積んでいることはかなり重要です。

よって学校とは「教わる場所」ではなく「考える場所」として認識しなおすべきではないでしょうか?こういうと、「それなら学校に通う意味がないじゃないか」と反論されそうですが、「教わる場所」としての学校なら極論を言うと意味がないと考えています。「知識」だけがほしいなら本やインターネットを使えば十分に得られるからです。学校の役割とは生徒が自分で考えるためのヒントを与えることなのではないかと考えます。

(ちなみに義務教育である小・中学校は単なる「知識」を与える場ではないと考えています。これらの学校は学習指導以外に生活指導をする場所としても機能しているからです。「人間関係の教科書」のようなものが存在しないことから分かる通り、生活指導に関する部分は生徒が自分で考えなければいけないことが非常に多いです。そのため、小・中学校さえも無意味であるという主張ではありません。)

以上、現代の学校教育に対する筆者の見方と私の意見でした。タイトルの「思考の整理学」という内容からは少々外れてしまいました。しかし、重要だと感じた内容なのでご紹介させていただきました。次回は「思考の整理学」に関する部分をご紹介したいと思います。

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